伝 説  
   1 法師の人柱(板木)  
      金比羅山と竜海山にはさまれた板木村に行く道は、村と村をつなぐ大切な道であった。この道は細く、両側から山が崩れて通れなくなることがしばしば起き、住民達は困っていた。いくら掘り割って道をつくってもまた崩れた。この山は夫婦山だ、と人々は恐れるようになり、天明の地震があったりで益々恐れた。
 その頃、金比羅山には山法師が小さな小屋を建てて住んでいた。時折、里に下りてきて托鉢をするだけで村の人達と関わり合いを持たず、まるで仙人のような暮らしをしていた。村人達も法師のことなど忘れかけていた。
 地震から数年が経ち、近隣の村人達の間に再び道を切り開く話が持ち上がった。この道は田畑に通ったり、村人が用事に行くためにはどうしても必要な道で、山を越えて行くには具合が悪かった。みんなで協力すればきっと切り開ける、という意見が強くなった。しかし、どうせまた崩れるに決まっている、と反対する者もいた。
 激しい討論の末、切り開くことになり、工事を始める時に、山法師が村にやってきた。
 「山を切り開くそうだが、人柱を立てなくては、また崩れてしまう」
と山法師が言った。そうは言われても、誰も人柱になる者がいるはずもなく、人々はただ顔を見合わせるばかりであった。
 「わしももう年だし、村の衆にも世話になったから、わしが人柱になろう」
 そんなことはあまりにもかわいそうという者もいたが、結局、法師の好意を受けようということになった。やがて穴掘りが始まり、法師は鈴を鳴らしながら穴に入り、七日間、鈴の音が聞こえたという。人々は法師の好意を無にしてはならじと、今までの倍の広さで道を切り開く工事に取り組んだ。出来上がった道は今までより広く深くなり、二度と崩れることはなかった。
 法師が人柱となった場所には塚が築かれ、「六部塚」と呼ばれた。高速道路の近くの林の中には塚が残され、遍照寺の方丈様がお経をあげ供養している。
                         〔出典:磯部定治著「ふるさとの伝説と奇談(上)〕

 
    2 秋月清庵(虫野)  
     いつの時代かはさだかではない。秋月清庵は筮の名手として、時の天皇に仕え厚い信頼を得ていた。まわりの人はこれをよく思わず、ある事ない事を告げ囗し、天皇の逆鱗に触れ追放の身となった。あてのない旅に出た清庵は、妻と幼い娘を伴って三国峠を越え、越後に入ってきた。
 浦佐村の水無川に差しかかった。水無川は川幅こそ大きいが、真ん中を清流が流れる浅瀬があり、ここを渡る旅人達も多かった。清庵が最初に渡り安全を確認し、妻と子に早く渡るように促した。娘を抱いた妻がゆっくりと渡り始めたその時、上流で夕立があったのか鉄砲水が親子に襲いかかった。浮きつ沈みつ濁流に流されて行く妻と娘を、清庵は土手の上を気違いの様に追いかけたが、とうとうその姿は濁流に消えてしまった。下流の岡新田の船頭が助け上げた時は、娘をしっかりと胸に抱いてすでに息絶えていた。
 清庵は泣く泣く妻と娘をこの地に埋葬し、その霊を弔うため、そこに留まる決心をした。虫野のある山の平らな所に雨露をしのげるだけの小屋を建て、たくはつをして飢えをしのいでいた。乞食坊主の様な生活に誰言うとなく清庵坊と呼んだ。清藪と呼ばれている地名は、このセイアンボウがなまって付けられたものだと言う。また虫野という地名はこの清庵が名付けたとも言われている。 この話には後日談がある。この場所は久右衛門家の持ち山であった。分家の石屋の久六は、セイヤブに宝物が埋まっている、という夢を見た。最初は気にもかけなかったが、同じ夢を一週間も続けて見たのであった。久六は山に向かい、夢に出てきた場所を掘ってみた。しかし宝は見つからず、蜂が飛びだし刺されてしまったという。
 現在、ここは基礎に使われたと思われる石が並び、野獣を防ぐための壕が残されている。また久六が掘ったといわれる穴は深く、入ったら一人では出られない程の深さであった。(小池達雄氏より聞き書き)
                                   〔出典:桑原克司著「虫野のあゆみ」〕

 
   3 八百屋お七の供養地蔵(虫野)  
      昔ある夏の夕暮れ、若い僧が虫野村を通りかかった。折りからの激しい夕立に遭い、林の中の古い庵の軒下で雨宿りをしていた。すると入口の扉が静かに開いて、老いた尼が「中にお入りなさい」と招き入れ、すすぎの永を出してくれた。
 「どこまで行くのか知れませんが、間もなく囗も暮れます。今夜はここにお泊りなさい」
と言われ、若い僧は礼を言って泊めてもらうことになった。
 夕飯を頂きくつろいだ時、若い僧は「さっきのすすぎの水のきれいなことに驚きましたが、どこにあるのですか」とたずねた。
 「裏山の麓に湧いているのです」
 「その湧き水のほとりに、小さな地蔵さんを立てさせてもらいませんか」
 「若いのによい心がけです。幸い村に石屋がありますので、お世話しましょう」
 何か訳ありげな様子にその訳をたずねると、若い僧は静かに話し出した。
 「私は本郷駒込の生泉院で寺小姓をしていた小野川吉三郎と申す者です」
 天和2年(16 8 2年)12月に大火があり、焼け出された八百屋お七は生泉院で仮住まいをしていて、この吉三郎と恋仲となった。火事にさえなればまた恋しい吉三郎に逢えると放火、その罪でわずか十六歳で火あぶりの刑になった八百屋お七の、恋の片割れの変わり果てた姿の吉三郎であった。
 「熱い熱いと言いながら焼き殺されたお七がふびんで、冷たいきれいな水のほとりに、供養のため地蔵様を建てているのです」
 吉三郎は尼の前に少しずつ貯めていたお金を差し出し、「わずかですが、この金で石屋を頼んで下さい。私は明日また旅に出ます。まだ行きたい所があり、行く先々に地蔵様を建てたいと思っています]
 うなずいた尼はあらためて若い僧を見ると、その色白で端正な顔立ちは、お七ならずとも心惹かれるいい男であった。
 「わかりました。約束はきっと果たしますからご安心ください」
 数百年この方、薬師山の麓に苔むした姿の地蔵様が安置されている。
                        〔出典:磯部定治著「ふるさとの伝説と奇談(上)〕

 
   4 大浦十二様の仁礼の木(大浦)  大浦 佐藤政治  
      大浦の十二様と呼ばれる「十二大明神」を祀った石の祠があります。昔、十二講といって、田畑の豊穣を祈ったり、山仕事の無事を祈ったりする行事が広く行われていた頃は、その祭神でしたので、農民たちの尊崇を集めた神社であります。この神社の境内に俗称「仁礼の木」といわれる古い大木があります。学名は知りませんが、この附近の山野に同種類の木が見当たらないものであると聞いている珍しい木であります。木の種類が珍しいというだけでなく、木そのものの姿が珍しいものであります。木の高さは約4mほどですが、根本から約1mは空洞になっていて、ほとんど樹皮だけという状態になっているのです。空洞から上の幹は普通で、樹勢は少しも衰えず枝も葉も元気よく繁茂しており、幾度かの大風にも倒れることもなく今日に至っています。私ども子どもの頃に、この空洞で遊んだものですので、空洞化してから既に100年以上、場合によっては、それよりずうっと昔から空洞化していたのではないか、と思われます。それでも、樹勢が少しも衰えず繁茂しているのですから全く珍しい木であると思います。
 この仁礼の木についての伝説を書き遺したいと思います。
 お話は板木城(雷土城ともいう)にまつわるものであります。
 板木城は六日町の坂戸城と共に、今から約800余年前、平清盛に代表される平氏と、源義朝(頼朝、義経の父)に代表される源氏とが、平治の乱で抗争した頃にはじまっていました。
 その後、鎌倉時代、南北朝時代、足利時代、戦国時代と年代の移り変りと共に城の攻防が繰り返され、城主も多く替わったが、その年代や城主の名は伝わっていません。ただ、丸田周防守という城主とか、楡井修理亮とかいう城主の名前だけが伝え残っているだけであります。
 この楡井修理亮も、敵軍に攻められて落城ということになり、城から峯伝えに落ち延びて大浦の十二様の境内に一旦落着かれた。その時、途中で折り取って手に持って来た枝を、十二様の境内の隅にさして立ち去りました。
 その枝が根づき、芽を吹き出して成長したのが、この「仁礼の木」である。
 というのが、この巨木にまつわる伝説であります。
              〔出典:小出町老人クラブ連合会発行「伝え遺したいもの」第2集〕

 
   5 坊さん狐(岡新田)       虫野 上村 白陽  
     伊米ヶ崎村(これは小出町へ合併前の名前で、虫野、板木、原虫野、伊勢島、大浦、大浦新田、十日町、岡新田の八部落)の一番南の方に八色原という広い原野がありますが、そのそばに岡新田と呼ぶ戸数が八戸位の小さな部落がありました。(現在は20戸近い) この岡新田の八色原に「鏡ヶ池」という清水の湧き出る池があって、水はたいへん奇麗で水底まで透き通って見える、それはそれは美しい池がありました。月夜にでもなれば、その名の通り鏡を地面に置いたのか、と思われるような美しい小さな池でありました。
 この池のそばに茅薮があって、その大きな茅のある薮の中に狐が住んでいました。その狐を人びとは「坊さん狐」と呼んでいました。なかなかのいたずら狐で、よく小僧や和尚様に化けるので、人びとはそう呼んでいたのでした。余りいたずら狐でしたので、「凡狐の野郎」とかなんとか悪口も言っていました。
 ある年の3月3日、浦佐の毘沙門様の押合い祭に、原虫野の茅倉(屋号)の爺さんと床(屋号)の爺さんが二人で、お参りに出た時の出来ごとです。
 ニ人は十日町の花屋酒店へ引っ掛かって茶碗酒を飲み出しました。床の爺さんは余り酒が飲める方ではありませんでしたが、茅倉の爺さんは酒好きで良い気嫌になって浦佐に向かいました。道中、岡新田を通って鏡ヶ池の道端で立小便をしていると、草薮の中から「がさがさ」と一匹の狐が飛び出しました床の爺さんはびっくりして小便をやめ、
 「おーい、茅倉。いつまで小便をしているのだ。早くいこうぜ」
と、せき立てるのでした。茅倉の爺さんは、      、
 「急ぐな急ぐな。急いで大阪の城は落ちた。急ぐとロクなことはない。狐が一匹出たか。そんな事は何でもない。狐だ狸だと言ったって、皆俺たちと同じ動物だ。みんな仲間だ。土産をいっぺい(沢山)買って来るぞ。アッハハハ;‥……」
と、酒の元気で大きな声で言いながら、男の物を仕舞い込み、
 「ヨーシ!ぽつぽつ行こうか」
と、良い気嫌で浦佐に行きました。
 二人は毘沙門様に家族の無事息災を祈り、出店を廻ったあと「勘助婆さ」という居酒屋へ立ち寄り、コップ酒をまたまた飲んだ後、大勢の人混みの中を歩いているうちに、二人は何時の問にか、はぐれて(離れ離れになって)しまいました。
 茅倉の爺さんは、床の爺さ野郎は何処に行ったかと、あちらこちら搜して見たが誰も知らないというので、困ってしまいましたが、まごまごしていると日が暮れてしまうので、仕方なく一人でポツポツ帰り道につきました。
 道中、水無川原の真中へ来ると、あたりがどんどん暗くなり出しました。
 「おや、今から暗くなる筈はないぞ。酒が廻ったせいかなあ」
と、目をこすってよく見ると、向こうの方に人が一人立っているので、てっきり(きっと)床の爺さんだと思い、急いで近づいて見ましたところ、旅の僧でした。
 「お前さん、この先に年寄りが一人行かなかったかね」
と聞くと、知らないとのこと。僧は小出の方へ行くのだということなので、連れ立って歩いて来ました。途中、僧は何も話をしないので、
 「おい坊主、お経でも唱えてはどうだ。何だか淋しくて仕方がない」
と言いながら、僧を振り返って見ましたが、何時の間にか、僧の姿は立ち消えてしまっています。
『八テ!何処へ行ったのだろう。先程まで、ついて来たようだったのに』と思って、立ち止まって、前を見たり後を見たりしていた時、クラクラと軽いめまいがして、道端の杉の木の切株に腰をおろして休みました。しばらくして目を開けて見ると何時の間にか、自分の家の前に来ていました。あねさ(嫁)が
 「爺さま寒かったでしょう。風呂が沸いていますから入らないか」
と、言うので、早速履物をぬいで家に入り、風呂に入って良い気持で鼻歌を歌っていました。
 一方、床の爺さまは、茅倉の爺さまが見当たらない、あちこちと浦佐の酒屋をさがして、人びとに聞いても皆知らないという返事。そこで丁度、板木村の熊の堂(家号)の爺さまと、十日町の田中(家号)の爺さまが来たので、三人一緒になって帰って来て、鏡ケ池の端まで来ると、池の中に裸になって入っている者がいるので、『この寒いのにどうしたのだ』と思いながら近寄ってみると、それがなんと茅倉の爺さんではないか。みんなが、
 「おいおい、何てことだ。風邪を引くぞ。早く上れ」
と言うと
 「いやいや。丁度良い湯だ。燃やさなくてもよいぞ」と、
手を振っているので、『こりゃ気が違っているぞ』と手を引いて引き上げて、急いで着物を着せ、褌をさせて
 「しっかりしろ」
と言うと、何か何だかさっぱりわからないような顔付きで、目をパチパチしていたが、そのうちに気が付いて、
 「よう、君達は何しに(何をするために)来た」
というので、池の中に入っていた様子を話したら、    `
 「そうか、それじゃ俺は狐に化かされていたのだな。水無しの川原の真中で、旅僧に会ったが、それが狐だったか。また、凡狐のいたずらだなあ」
とわかり、『余り悪いことをするど、生かしては置かんぞ』と言いながら家に帰りました。
 家へ帰って爺さまが調べてみたら、土産に買って来た鯨一束(百本)がただの三本しか無かった、ということでした。行きながら、冗談に狐をからかったので、狐も土産がほしかったのかこんないたずらをしたのであろうという話でありました。
               〔出典:小出町老人クラブ連合会発行[伝え遺したいもの]第2集]

 
   6 浄源塚の由来(八色原)   十日町 荒井 昌幸  
     話は南北朝時代、新田義貞と足利尊氏の争乱時代に始まりますが、その当時、越後の国魚沼附近は新田義貞の飛地領となっていました。義貞は13 3 3年、尊氏討伐の兵を挙げて南朝側のために奮戦しましたが、13 3 8年に越前福井において戦死したと伝えられています。
 さて、足利、新田両勢力の抗争により、越後は南北両党に分かれて混乱状態に巻きこまれることになりました。義貞戦死後、13 4 0年に義貞の弟、義宗が越後において再挙を謀ったとも伝えられています。義宗は越後において新田勢を再び盛んにして、義貞の子で7歳になる者を総大将にし、義宗は戦争大将となって、これの後見役をしながら尊氏の本拠鎌倉に向かって攻撃に転じました。足利勢は尊氏の側室の子で、11歳になる者を総大将にし、戦争大将は高師直が之に当り、新田勢を迎え討とうとしました。新田勢の越後兵士は、その民族性を如実に現わして、困苦に耐え、常に優勢裡に足利軍を攻撃して鎌倉落城かに見えましたが、師直の策に落ちて逆転され、敗走の止むなきに至ったということであります。このことが、芝居に出て来る「矢口の渡し、とん兵工屋形の場」
の一幕にもなっているのです。
 
この時、義貞の若殿を守護していた豪の者で聞こえる家老は、七歳の若君を背にして逃走しました。新田軍勢はもちろん、ちりじり、ばらばらに敗走してしまいました。戦に敗れたとなれば、味方といえども、何時、敵となって首を狙われるかわからないのが戦乱時の常ですので、若君を連れた家老は、道々ひと時たりとて気を許すことなく、ようやく越後にもどりました。上田城(坂田城ともいわれる)には北の方が居られるというので、苦心の末、上田城に来て見ると、ここの新田勢も総くずれという有様。北の方は山崎の城に移ったと知り、人目を避け、村落を避けながら逃走を続け、日が西に傾く頃、ようやく辿り着いたのが八色原でありました。
 その頃の八色原は、ただ一面に茅が繁茂して見通しもきかず、たずねる城は目の前に在り、人里離れて人目にかかる心配もないと思うと、さすが豪の者の家老もほっと一息して、背にした若君にもひと時の休憩をと、側におろしました。まだ七歳の幼い若君は、連日連夜の逃避行に食べものもうにまかせず、疲労が重なって突然引きつけを起こしましたので、驚きあわてた家老は、腰の薬液を取り出し、薬を囗に含ませて、水をと竹筒をさぐりましたが、水は一滴も残っていません。致し方なく、あたりに水はないかと、茅の繁みの中をあちらこちらと探し廻ったが水は見つかりません。若君のことが気にかかるが水もほしい。方々を探し廻っているうちに、もとの場所に帰る道もわからなくなって途方にくれるうちに、日も西の山に沈んで、だんだん暗くなってしまいました。
 とかくするうちに、どこからともなく数頭の狼が襲いかかって来ました。ものより豪傑で知られた家老は、苦もなく切り伏せて狼どもは退散させたが、気にかかるのは若君のこと、もしや今の狼に襲われれば一たまりもないと、狂気の如く探し、ようやく元の場所にと来て見れば、若君の姿はありません。若君、若君と声を限りに呼びながら探せども、日は暮れ果ててあたりは暗くなり、呼ぶに答えて来るのは、唯茅をなびかす風の音と、時折り啼く野鳥の声のみ。
 一晩中、狂気のように探し求めたがその甲斐なく、ようやく夜の明け方に至って、近くの薮の中から若君の着衣と思われる一片の衣類が、血に染まって残されているのを発見しました。さては昨夕、我を襲った狼どもの所業に相違ない。今は、何より大切な若君を失ったことは主家にも北の方にも申し訳がたたない。一門の方々に会う面目もない。この上は、腹かき切ってと死を決したが、自分か死んでは誰が味方敗戦の様子や若君の最後の様子を知らせることが出来ようか、とも考え直し、生か死か、心は千々に乱れ、泣く涙も枯れ果てるまでの思案の末、自分の仕でかした不覚を心で詫びながら、いずこえともなく旅立ったのであります。
 その後二年の歳月が流れて、新田氏は全く滅亡した時、再びこの地を訪ね現れた人は、浄源と名のる諸国修行の六部、これこそ、元新田の家老でありました。
 浄源は門前郷士を訪ねて、二年前の戦のことから、自分の不覚のため、主家の若君を失ったことを詳細に話したあと、自分が不覚のもとをただせば、この広漠の原に一つとして目標になるものが無かったこと、又一つには、附近どこに行っても水源が無かったことで、ここの二つが無かったばかりにと、嘆き悲しんだ後、後目再びこのような悲しいことが起きないように、又一つには若君の為にと「己は仏に仕える身、今は腹切る代りに生埋めになってお詫び申しあげる。己れの塚には墓の代りに木を植えて貰いたい。己れの念力を以て、必ず大木にし、この原の四方、いずれからでも見える木に育てて見せる。更にまた、ここに井戸を掘るならば四季何時にても涸渇することのない滾々と湧き出る泉を出して見せる」と言い残して、自ら生き埋めとなって果てたと伝えられています。
 このことがあってから二百年余りにして、雷土の利左工門によって、ここに井戸が掘られ、杉の木が植えられたと言うが、浄源が言い残した通り、春夏秋冬、涸渇することのない泉が湧き
杉の木は八色原どこより見ても見ることの出来る大木になったことは、浄源の悲しい念力の所業と伝えられています。
            
  〔出典:小出町老人クラブ連合会発行「伝え遺したいもの」第1集〕