八海自由大学                参考文献:小出町発行「小出町史(下巻)」

 大正末期、デモクラシーの影響が地方にも影響を強めていく中で、農村青年と教師が中心となり、ささやかな哲学研究会が隣の長野県で誕生しました。参加者から聴講料を徴収し、それによって学習会を連続的にかつ総合的に組織するという構想は、講師に招かれた土田杏村の肩入れで、やがて自由大学運動という形で長野県内に広まっていきます。その後、県外各地にまで広がりを見せたこの運動は、やがて昭和初年にはほとんどその灯が消えてしまいます。
 ここ伊米ヶ崎に開講した「八海自由大学」について以下に紹介し、先人の熱き勉学への思いを今一度見つめ直し、現代につながる自由大学の精神を探ります。

 
 
魚沼地方における自由大学の開講

 官から独立し、政治活動よりも教育学習活動を重視するという方針の自由大学は、大正10年(1921年)に長野県の上田で開設された「信濃自由大学」がその源と言われています。新潟県内では、翌年の大正11年8月に堀之内村で魚沼夏季大学(後の魚沼自由大学)が開催され、伊米ヶ崎村でも八海夏季大学(後の八海自由大学)が開催されたともいわれており、翌年の大正12年には県内初の自由大学が両村で開講されました。その後、川口村(現長岡市川口)にも川口自由大学が開講されました。
 魚沼自由大学開講のきっかけは大正11年8月に鉄道開通を記念する行事として堀之内村の青年商工業者で組織していた「響倶楽部(ひびきくらぶ)」が中心となり、中条登志雄の提案によって夏季大学の開催が決められたからです。中条は書店の商売を通じて伊米ヶ崎小学校校長の渡邊泰亮(たいすけ)と知り合いで、渡邊から夏季大学の企画を持ちかけられていました。渡邊泰亮は伊米ヶ崎村の城鼻(現十日町地区)の出身で、大正9年(1920年)から郷里の伊米ヶ崎小学校長を務めていました。
 魚沼の自由大学開講については、渡邊と極めて親しい交友関係にあった土田杏村(きょうそん)の存在がありました。土田は佐渡新穂村出身で、日本画家土田麦遷(ばくせん)の弟です。師範学校卒業後、(東京)高等師範学校に進学し、卒業後さらに京都帝国大学哲学科に進み、西田幾多郎らから哲学を学んだ当代一流の新進文明評論家であり、信濃自由大学の指導者でもありました。土田杏村と渡邊泰亮はともに新潟師範学校で学び、土田が2年上の先輩です。都会から遠く離れた雪国の田舎に、多くの著名な講師を招くことができたのも土田の力によるものです。

 
 八海自由大学の展開 

 渡邊泰亮は、伊米ヶ崎小学校長として新しい教育方法を採用して成績の向上に努め、県下でも有名な教育村としての評価を得ていました。また、青年の教育にも尽力し、弁論会などを通して伊米ヶ崎村の文化基盤を盛り上げるのに貢献していました。
 当時の伊米ヶ崎村の青年たちは、毎日読む新聞の紙面に、地主と小作争議、資本家と労働者、デモクラシー等の言葉が見えることから、その言葉の意味を理解しようと勉強していました。
このような青年たちの向学心に応えるため、地方の一般の人が働きながら自由に大学教育を受けられる自由大学を企画し、推進したのが渡邊泰亮でした。渡邊は、土田杏村の協力を得て、別表のとおり、中央から革新色の濃い著名な学者や芸術家を講師として招きました。

 詩人の野口雨情、作曲家の中山晋平、流行歌手第一号の佐藤千夜子などは極めて知名度の高い講師でした。
都会から来た講師たちも農村の豊かな自然や人情味に触れて、自らも学んだ自由大学でしたが、やがて終焉を迎えます。その理由は、最大の推進者であった渡邊泰亮が大正15年(1926年)3月に県視学として新潟に栄転し、魚沼の地を離れたことです。また、土田が病気になったのも影響しました。
 八海自由大学は、当時の青年に何を与えたのでしょうか。聴講生の一人だった虫野の桑原福治(「伊米ヶ崎の明治百年」の著者)の言葉によれば、「自由大学は、無産者にも学問の機会があることを教え、働きながら学ぶ、人生への態度と我等の生甲斐を与えた」のでした。そして教師や商店主など自由大学の聴講生は、その学習体験を糧としてそれぞれの分野で幅広く活躍しました。
 教育による地域おこしでは、長岡の「米百俵」が有名ですが、それに負けずとも劣らないのが魚沼の「自由大学」です。自由大学の精神は、生涯学習時代の現代にこそ最もふさわしく、その功績は再評価されるべきものであり、日本の教育史に燦然と輝く金字塔とも言えるでしょう。その八海自由大学の灯火は、時代を超えて今も、ここ伊米ヶ崎に輝き続けているのです。

 八海自由大学講座一覧

開講年月日 講 師 ・ 内 容   会 場
1 大正12.12.16 発会式兼第1回講演会
伊米ヶ崎小学校 
高倉 輝(著述家) 「文学概論」
2 大正13.2.16〜17 出(いで) 隆(哲学者) 「哲学史」 伊米ヶ崎小学校
3 大正13.8.1〜2 山口正太郎(京都大学教授) 「経済哲学」 浦佐村 普光寺 
大正13.8.3  野口雨情「童心芸術、童謡教育」 
4 大正14.3.14〜16 富田砕花(関西学院教授) 大浦 
佐藤清之丞宅
「土の文学(アイルランド文学を中心としたる)」 
5 大正14.8.1  中山晋平(作曲家)佐藤千夜子(歌手)
 「音楽講習会」
六日町小学校 
6 大正15.12.26〜28 柳田謙十郎(新潟師範教授)
伊米ヶ崎小学校 
 「リッカート 認識の対象概論」

 普光寺山門にて 大正13年(1924年)8月3日

    
右から渡邊泰亮、関 久治(浦佐出身。後の校歌作成時の伊米ヶ崎小学校長)、
野口雨情、駒形新作(干溝出身。伊米ヶ崎小学校長の後、県視学となる。   
八海自由大学記念碑の原本となった野口雨情の歌の掛軸所有者)       


【こぼれ話】

◎ 誤解を招きやすい文言のある八海自由大学記念碑の「建碑の由来」

 1 「世に先がけて」→ 八海自由大学は全国で四番目の開講で、最初ではありません。

 2 「野口雨情、中山晋平、佐藤千夜子の名トリオを迎えた」
   → 3人揃って顔を合わせた講座は残念ながらありませんでした。
  中山晋平と佐藤千夜子は伊米ヶ崎小学校に来ていますが、それは先生方対象の音楽会でした。

 3 「この山村での旅情を歌った」
   → 野口雨情が宿泊したのは浦佐であり、伊米ヶ崎村ではありませんでした。


◎ 自由大学が発展した考察
 1 鉄道網の発達のおかげ
   → 大正時代における鉄道網の発達が時代背景にあります。
   → 遠く関西から、蒼々たる講師がこの越後の片田舎にやって来ました。
   → 上越北線(現在の上越線)が開通したおかげでした。

 2 京都→長岡→堀之内駅、浦佐駅  
   → 京都からは北陸線、信越線を経由し、長岡で上越北線に乗り換え、堀之内駅や浦佐駅へ。

 3 東京→高崎→長野経由
   → 東京からは高崎、長野を通って信越線経由でした。

 4 小出と浦佐駅の関係
   → 小出駅と浦佐駅の開業は大正12年の9月1日でした。
   → その日に関東大震災が発生しました。
   → 鉄道が開通し、関東大震災が発生した年の12月16日に、八海自由大学はその産声をあげたのでした。