各地区の沿革
板 木

 板木村の創始はつまびらかでなく、鎮守社八幡宮は、山城国男山八幡宮を勧請したと伝えられています。 古くから楮(こうぞ)と和紙の生産がありました。昭和初期まで地紙(和紙)の生産が記録されています。村の南東部の山頂に中世の板木城跡があり、深い空濠に当時をしのぶことができます。
天和の検地には村の総石数300石とあり、その後、江戸末期の慶応新開を含めて353石に増加しました。軒数は、宝永8年(1711年)に20軒で、天保2年(1831年)には46軒となりました。板木の庄屋は、通称「熊の堂」と称する家が代々勤め、後には塩川・南雲両家も勤めたといわれています。
 文久2年(1862年)から明治4年(1871年)までの9年間で、三本木地区の開田がなされました。
 明治6年(1873年)に第十三大区小九区二番組に属し、二番組は板木村のほか原虫野新田及び伊勢島新田の三ヵ村で、組合三ヵ村ともいいました。
 明治13年の改正教育令時代に初等板木校ができ、板木村の児童だけが通学しました。明治19年の小学校令により、板木校は廃止となり、虫野校に通学しました。
明治22年(1889年)に虫野村ほか八ヵ村がそのまま伊米ヶ崎村になりました。


原虫野新田

 原虫野新田は、寛永7〜8年(1630〜31年)に虫野村を親村として耕地が開発され、寛永12年(1635年)に検地を受けて独立しました。検地は6尺3寸(約1.92m)の竿を使いました。
 寛永12年(1635年)11月に、高田藩は村高を85石余と決めました。開発功労者である虫野村の与左衛門尉に、村高のうち8石を開発功労者への報償として無税地としました。さらに、文久2年(1862年)には、東裏、西裏、久保、石原の4ヶ所の萱野や林を新開地とする計画が立てられました。しかし、資金の見通しがたたなかったため、新開の権利を中子沢村の長治郎に売りました。長治郎により、計画が立てられてから4年目の慶応元年(1865年)に新開の鍬入れが行われました。地元村方の取り分が「四分地」と呼ばれ、現在もその名が伝えられています。
 翌年の慶応2年(1866年)に新開が終わり、畑田成が8町5反余、この高が12石4斗でした。それを村方四分、願人六分に配分しました。村では慶応新開と呼びました。
 明治6年(1873年)に第十三大区小九区二番組に属し、明治17年(1884年)に虫野村ほか八ヵ村戸長役場が虫野村に置かれ、原虫野新田の戸長には桑原勝造が選任されました。この虫野村ほか八ヵ村がそのまま明治22年(1889年)に伊米ヶ崎村になりました。

伊勢島新田

 伊勢島新田は、寛永14年(1637年)に新田開発が始まり、正保3年(1646年)まで無高でした。伊勢島新田は虫野村の村立新田で、桑原太郎左衛門(一説に桑原条右衛門)が開発者でした。
新田ができ上がり、正保5年(1648年)に伊勢神宮に礼参して、皇太神宮の分霊を勧請して鎮守社とし、村の名を伊勢島新田と名付けたと伝えられています。
 たび重なる水害で村には古い文書はなく、検地帳も一冊も保存されていないため、古いことは定かではありません。
 向山に伊勢島新田の地籍があり、字名にガキ山、要害、川平の名が残っています。鍬形城跡も伊勢島新田の地内にあります。
 享保6年(1721年)に青島村と伊勢島新田の山論がありました。前年に用水の争論がもつれて刈敷山(向山)争論に発展していったのですが、干溝村の林泉庵の仲裁で、和談が成立しました。
虫野村とも宝暦9年(1759年)に山の争論がありました。
治水事業が不完全であった当時、村立新開である新田村の場所は、水難のない安全地帯に決めるのですが、川前新田の悲しさでわずかの出水に村も耕地も流されています。
 嘉永3年(1850年)の3月2日の夜には雪解け水で魚野川が増水し、伊勢島新田の普請所が流失しました。明治29年(1896年)には十数戸が流される水害があり、字西浦から字東浦に移転しています。このように川普請に明け暮れた村でした。
明治維新後は、第十三大区小九区二番組に属し、明治17年(1884年)に虫野村ほか八ヵ村戸長役場に属することとなり、そのまま明治22年(1889年)に伊米ヶ崎村となりました。


虫野村 

 伝えられるところによると、昔開村の頃は、板木・干溝両村の間にある山王山の麓あたり、わずか8軒の村落であったといわれています。その後、棚入に移り、慶長17年(1612年)の古地図には、棚入と現位置に村落として記されています。
 虫野村は早く開け、天和3年(1683年)の検地帳には419石とあり、軒数は宝永8年(1711年)には36軒、天保2年(1831年)には70軒となっています。
 字東浦に年貢米を収納する郷倉がありました。この郷倉へ収納する村落は、浦佐組に属する南魚沼市の旧東村と、青島村及び旧伊米ヶ崎村であり、岡新田は浦佐郷倉収めでした。
 虫野村は、南に三用川、西に魚野川と二本の川に面していますので、豪雨出水ともなれば堤防も傷み農地も荒れるので、その復旧は農民には過重な負担でした。魚野川には、虫野沢行きの船渡しがあり、萱刈り、刈敷、ボイ切りなどのための大切な交通機関でした。
 江戸後期には酒蔵が二軒ありました。
虫野村は、明治6年(1873年)に第十三大区小九区三番組となり、明治8年(1875年)には第二十番小学区の本校虫野校ができました。その後、校名も幾度か変わりはしましたが、伊米ヶ崎小学校として今日まで続いています。
 明治17年(1884年)に虫野村ほか八ヵ村の戸長役場が置かれ、明治22年(1889年)に伊米ヶ崎村となり、戸長役場は村役場となり、昭和29年(1954年)に小出町に合併するまで、その所在地でした。


大浦村

 大浦村も早く開けた村落と思われますが、古い記録はなく、定かではありません。
 天文3年(1534年)には赤城山西福寺の開山があり、その頃、加賀の白山神社の分霊を勧請して寺の内鎮守とし、後に村の鎮守社としたと伝えられています。
 軒数は、天和3年(1683年)に9軒で、検地面積が田畑屋敷を合わせて8町9反3畝7歩で、高111石5斗3升6合でした。その後、宝永8年(1711年)には12軒となりました。
 宝暦検地(1754年)で、面積15町2反1畝歩、高57石2斗5升5合増加し、この地区では岡新田に次いで面積・石高ともに大きく増加した村でした。
 近世は、およそ50年おきに記録に残る飢饉を経験しており、その原因の多くは天明の飢饉(1782年〜1786年)のように浅間山の大爆発によるものや、冷夏が原因となる自然災害と病害虫の異常発生によるものなどでした。大浦村には宝暦6年(1756年)5月の「大浦村飢人書上帳」があり、家数9軒、人別33人、うち男18人・女15人となっています。5月という月は端境期で、大浦村以外でも同様の苦しみを経験していました。
 明治6年(1873年)に第十三大区小九区四番組に属し、大浦村の佐藤貞三が小九区の戸長となりました。四番組は、大浦村・大浦新田・十日町村・岡新田の四ヵ村でした。翌年の明治7年(1874年)に西福寺開山堂で小学校が仮開学し、明治8年(1875年)に虫野校ができました。明治17年(1884年)に虫野村ほか八ヵ村の戸長役場が虫野村に置かれてそれに属し、明治22年(1889年)に虫野村ほか八ヵ村がそのまま伊米ヶ崎村となりました。


大浦新田

 大浦新田は、天和の検地帳(1683年)には大浦村の新田地として一緒に検地を受けていて、その頃はまだ独立した村ではありませんでした。梅田七兵衛家に保存されている元禄5年(1692年)の文書には大浦新田村としてあり、寛延4年(1751年)の検地帳にも大浦新田村となっていて、天和から元禄の間に独立した村落になったと考えられます。
 集落と田は、大部分が崖の上にあり、乾田で主に三用川の水を堰で江筋へ引き入れて耕作していた新田地です。天保年間には、雷土村・雷土新田の百姓と三用川の取水をめぐって水争いが起こっています。
 嘉永7年(1854年)には、用水を必要とする新田開発や現在ある農地に切添新開をしないことを村中で取り決めており、用水不足で苦労していることがよく分かります。
 明治維新後、大浦新田は第十三大区小九区四番組に属し、通学区は第二十番小学区で虫野校に通学し、明治13年(1880年)の改正教育令時代は、十日町村に設置された初等十日町校に児童は通学しました。
 明治17年(1884年)に虫野村ほか八ヵ村の戸長役場が虫野村に置かれ、それに属しました。

 明治19年(1886年)に十日町校は廃止され、再び虫野村にある虫野尋常小学校に通学しました。
 明治22年(1889年)に虫野村ほか八ヵ村がそのまま伊米ヶ崎村となりました。

 十日町村

 伝説によれば、十日町村は昔六軒新田といわれ、現十日町村の西方魚野川の付近にありましたが、たび重なる水害を避けて現位置に移ったといわれています。十日町村は、南に水無川、西に魚野川、東北に三用川と三方を川に囲まれており、水害の常習地でした。
 魚野川を隔てた十日町沢を向山といい、延享元年(1744年)に五箇村と山の境界争いが起きましたが、翌年に郡奉行和田太兵衛が裁定しています。十日町沢に行くには虫野の渡し場を利用しましたが、虫野の渡し場に十日町村が加入して費用を負担していたことから、乗船者は無賃で渡ることができました。
 十日町村には萱の刈り場があり、虫野村が原虫野新田に家20軒を造る際に、萱が足りなかったことから十日町村で刈らせてほしい旨、寛永11年(1634年)の8月17日付けで、代官山田半右衛門が十日町庄屋及び惣百姓中に要請した書状があります。
 十日町村の上から岡新田に通じる旧道うらさ道には一里塚がありました。片方だけが塚の形で残っていて、上に榎の古木があって草むらの中に傾いた石碑がありました。近年、地主が榎を伐採して地ならしし、コンクリート固めにして台座を作り、石碑を固定しました。
明治維新後、十日町村は第十三大区小九区四番組に属し、通学区は第二十番小学区で虫野校に通学し、明治13年(1880年)の改正教育令時代は、十日町村に初等十日町校が設置され、十日町村・大浦新田・岡新田の児童が通学しました。
 明治17年(1884年)に虫野村ほか八ヵ村の戸長役場が虫野村に置かれ、それに属しました。
 明治19年(1886年)に十日町校は廃止され、再び虫野村にある虫野尋常小学校に通学しました。
 明治22年(1889年)に虫野村ほか八ヵ村がそのまま伊米ヶ崎村となりました。


岡新田

 岡新田は、五箇村の新田地であり、鎮守社は股倉神社で、岩山村のご神体を二分した一方であると伝えられています。
 五箇の枝村の町屋に魚野川の渡船場があり、近代まで続いていました。五箇村では畑が少なく、岡新田に来て畑を作っていました。現在は橋がかかっています。
 字山伏窪(現字上原)にはいつの時代か水無川の氾濫により大きな池ができ、村人は「鏡池」と呼んでいます。この池が水源となって水無川の伏流水も集めて崖下を流れ、魚野川に合流します。この川を清水川と呼んでいます。
 魚沼郡一帯の宝暦新田検地は、無届けの新開田畑が次第に増えてきたことから、岡新田の平左衛門が、自分の新田開発見立地の所持権を主張して、訴えを代官所に対して起こしたことから始まりました。
 村落は古くは魚野川の岸にありました。万延元年(1860年)12月25日(現在の2月4日)、突如として水無川が氾濫し、一面の雪の上を濁流が押し流れてきました。幸い昼間であったため人には死傷者はなかったのですが、馬四頭が厩の中で死にました。
 たびたびの水害を避けるため、丘の上の字杉入に村落を移し、さらに鎮守社も丘の上に移転しました。
明治6年(1873年)に第十三大区小九区四番組に属し、通学区は第二十番小学区で、虫野校に通学しました。明治13年(1880年)の改正教育令時代に初等十日町校ができ、岡新田の児童が通学しました。
 明治17年(1884年)に虫野村ほか八ヵ村の戸長役場が虫野村に置かれてそれに属し、明治22年(1889年)に伊米ヶ崎村となりました。

 
 「伊米ヶ崎最古の地図」
    三用川に沿って、大浦村、十日町村、ゆめがさき山、虫野村、たな入り、板木村の名前が読める。
    八色原が「屋可能(やがの)」と書かれている。
               (出典:小出町史上巻「荒井瑛家文書」慶長17年(1612年)作成)