・神社 ・仏閣  ・山城探訪 編
                  「小出公民館、小出北部公民館、魚沼歴史・民俗の会」  出典
  神     社  場     所 
八幡宮  板木
 境内の広さは84坪(約277㎡)で、祭神は誉田別尊(ほんだわれのみこと)です。元は塩川家の内鎮守であったといわれており、明治維新の際に村の惣鎮守とし、間口2間、奥行2間3尺の社殿がありました。現代の社殿は、明治43年(1910年)に改築されたものです。

 2  稲荷神社 原虫野 
 境内の広さは35坪(約115㎡)で、祭神は保食命(うけもちのみこと)です。社殿は間口2間(約3.6m)、奥行2間3尺(約4.5m)でした。昭和41年(1966年)に火災に遭い、再建されました。明治初年の氏子数は31戸でした。現代の社殿は、昭和41年(1966年)に火災に遭い、再建されたものです。
 3  神明社 伊勢島 
 境内の広さは72坪(約237㎡)で、社殿は間口2間(約3.6m)、奥行2間で、文化10年(1813年)の建立と伝えられています。
 祭神は大日命(おおひるめむちのみこと)といわれています。明治初年の氏子数は24戸でした。

 4   諏訪神社 虫野 
 社殿は間口2間5尺5寸(約5.2m)、奥行3間(約5.4m)で、享和2年(1802年)の建立といわれています。
 祭神は建御名方命(たてみなかたのみこと)を祭ったもので、明治6年(1873年)11月、第十三大区九小区の村社になりました。当時の氏子数は82戸でした。
 春祭りは正月27日で、前日の宵祭りに前年新築した家を借りて、若衆が藁を持って集まり、「法螺〆」(ほらしめ)という真ん中の大きな法螺貝に似た〆飾りを作りました。この郷では珍しい立派な朱塗りの両部鳥居があります。

 



 5  白山神社 大浦 
 西福寺の内鎮守からいつの頃からか大浦村の鎮守社になりました。社殿は間口2間1尺(約3.9m)、奥行2間3尺で、天保6年(1835年)の建立といわれています。
 境内は77坪(254㎡)で、西福寺の境内に続いています。
 祭神は白山姫命(しろやまひめのみこと)です。明治初年の氏子数は40戸でした。

 6  十二神社 大浦 
祭神は大山祇命(おおやまずみのみこと)で、由緒創立年月日は不詳ですが、相当古いと考えられます。社殿はなく、本社は石祠で方8寸(約24㎝)、境内72坪(237㎡)で古木があります。
 7  八海神社 大浦新田 
 大浦新田の鎮守社で、境内の広さは316坪(1,042㎡)です。祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)ですが、神像はなく、千手観音が中宮の中に祭られています。
 社殿は明治32年(1899年)に間口2間3尺(約4.5m)、奥行2間(約3.6m)で、当時の氏子数は15戸でした。
 大正9年(1920年)、正面に石の鳥居が氏子中で建立されました。
 昭和47年(1972年)に現社殿が増改築されました。 

八海神社  十日町  
 十日町の鎮守社で、境内の広さは163坪(538㎡)村中持です。社殿は間口3間(約5.4m)、奥行2間3尺(約4.5m)で、文化2年(1805年)に建立し、村の大工大吉の建築と伝えられています。祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)ですが、神像は烏帽子束帯の男像であり、天和2年(1682年)に山城国の仏師の刻んだものです。
 石の灯籠が一対あり、文政9年(1826年)「当所若連中」と刻まれており、村の若い衆の寄進です。石の鳥居は「明治四十年(1907年)七月三十日氏子中建立」となっています

股倉神社   岡新田 
 岡新田の鎮守社で、五箇村岩山の御神体を二分した一方であると伝えられています。移転前の境内の広さは196坪で、社殿は天明4年(1784年)の建立で間口2間3尺(4.5m)、奥行2間(約3.6m)でした。
 祭神は  杵尊(ににぎのみこと)と天細女命(あめのうずめのみこと)を祭ってあります。明治初期の氏子数は10戸でした。たびたび水害を受けたため、村人は崖の上の字杉入に住居を移しましたが、股倉神社も昭和初年に移転遷座しました。
 平成3年(1991年)に新しく社殿が改築され、間口2間(約3.6m)、奥行2間3尺(約4.5m)で、屋根は鉄板葺きに替わりました。


  仏   閣  場   所 
真言宗山王山遍照寺 板木 
 境内の広さは660坪(約2,178㎡)で、本山は京都東山東瓦町にある智積院で、本寺は堀之内田川の大悲山弘誓寺です。天和3年(1683年)に火災に遭い、古い記録が焼失したために開基等は定かでありません。貞享2年(1685年)の賢盛法印の代に再建されましたが、現在の伽藍は自法印の代の文政6年(1823年)に建立されたものです。本尊派は金剛界大日如来を祭ってあります。

曹洞宗赤城山西福寺  大浦 
 境内の広さは1016坪(約3,352.8㎡)です。旧三島郡勝見村(出雲崎町)法持寺の末寺で、天文3年(1534年)、芳室祖春により開山されました。
 本尊は阿弥陀如来を祭っています。寺には有名な開山堂があり、石川雲蝶の彫刻で知られています。
 








3   真言宗八海山頼宝院   十日町 
 境内の広さは102坪(約336.6㎡)です。本山は京都市伏見区醍醐東大路町にある醍醐寺で、同所三宝院の本山直属の末寺です。もとは当山派の修験であって来宝院といっていましたが、明治5年(1872年)に修験道が廃宗となり、その後真言宗醍醐派に属して頼宝院と寺号を改めました。
 創始は正保元年(1644年)で、開山は重慶法印です。
 本尊は不動明王を祭っています。以前は大浦新田の字道下31番地にあり、今でも八海屋敷とよばれていますが、祈願者が多いため、元禄8年(1695年)に十日町村の兵部太夫の跡地に移転してきました。


 山 城 の 探 訪 
東西が山々に囲まれ、南北に伸びる魚沼の谷には戦国時代に至る所に山城が築かれました。            


右手から延びる尾根の先端が桑原城跡・左手が鍬形城跡。上部左側には下倉山城跡が望める。


左手に見える板木城跡から西に続いて延びる尾根、その先端に桑原城跡がある。


虫野交差点から登るとブナ林の中に桑原城跡がある。写真後方は巻機山とそれに連なる山並み。

桑原城跡( 夢ケ崎城跡 )

 桑原城跡は板木城跡の尾根の西先端にあり、城跡の名称は、夢ケ崎城跡、伊米ヶ崎城跡と色々な呼び方があります。夢ケ崎の名称は、この城跡がある山の名前が古文書に「夢ケ崎山」と書かれていることに由来します。この桑原城跡
は、天正年間(15731592)に上杉氏の家臣である桑原
弥次右衛門がいたと伝えられていて、桑原弥次右衛門は、虫野の佐治右衛門や太佐衛門の祖先です。頂上は平らで見晴らしがよく、西側に堀切りが一ヶ所あり、その麓を城鼻
呼んでいます。頂上には薬師堂と忠魂碑があります
 
桑原城跡の頂上の広場には、薬師堂と忠魂碑が祀られています。

 
右手が桑原城跡、左手に見えるのが鍬形城跡
 

    尾根の先端が桑原城跡(夢ケ崎城跡)で、その鼻先を通っている国道17号線と虫野交差点、その左手がかって
「城鼻」と言われた集落です。写真の上を流れているのは魚野川、対岸は険しい山塊で「鍬形城跡」がそびえ立
っています。
此の場所が、南北に細長く伸びる魚沼の谷の一番狭まっている場所で、攻め込む方も守る方も重要
な地点だったと容易に推察できます。

 板木城跡

 板木城跡は、天文年間(1532-1554)坂戸城主・長尾政景の家臣・金子尚綱の居城と考えられています。
 頂上は広く幾重にも堀切があり、切崖も施されています。東から緩やかに西に向かって延びる尾根は北魚沼郡
 (魚沼市)と南魚沼郡(南魚沼市)の分水嶺にもなっています。
 また、その西先端には桑原城跡と呼ばれる虫野の桑原砦跡(別名:夢ヶ崎城跡)、東に向かう尾根を100mも
 行くと湯谷砦跡が あり、ともに板木城の前後を固めた砦と言われています。
 

   主郭の本丸は6角形で、広さは約千㎡もあり、ここを中心に派生する尾根に階段状に郭を配しています。
    本丸と二の丸の高低差は約4m。三段に並んだ郭で構成され、腰曲輪・帯曲輪・やぐら台などの区画には、
空濠・土塁・崖壁で防備し、後方東側にはうね型濠なども施した、堅固なつくりとなっています。
       
              


板木城跡の北側の麓には、板木城跡の山並みに守られるように          
  板木集落があり、現在約60世帯の人々が穏やかに暮らしています。
         
 中部北陸自然歩道 板木城跡こぶしのみち

 
この道は国道17号線沿い佐梨を起点に、国重文・阿弥陀如来座像と苔庭で有名な円福寺から、古刹の林泉庵・宝泉寺を通り、展望のよい大力山、戦国時代をしのぶ板木城跡を経て、名匠石川雲蝶の彫刻を今に伝える西福寺(開山堂)にいたるコースです。
〈距離〉11.2km
〈難易度〉3
〈区間〉佐梨バス停 ~ 円福寺 ~ 林泉庵 ~ 宝泉寺 ~ 大力山山頂 ~
 板木城跡 ~ 西福寺 ~ 虫野上口バス停
 
 
テレビ塔より板木城跡こぶしのみちを望む(ここより大浦の西福寺へ下る)
 鍬形城跡

 鍬形城跡は、青島字福山の南嶺続きにあり、伊勢島新田の所有地にあります。城跡の規模は雄大で、頂上から東下方に二条の空壕があり、地続きの峨崎山と遮断されています。西方背後の嶺線上には、二条ほどの堀切りの痕跡が残されています。
 頂上からは、幅九尺(約2.7m)前後で、長さが百数十間に及ぶ平行上の郭があり、四尺前後(約1.2m)の高さで、不規則な雛壇の状態で二十数段ほどが中腹まで残っています。その跡が雪消え時には鍬によって畦を立てたような形に見えることから、鍬形城と言う名前がつけられたことがわかります。
 城主については、井口佐門正という名前が青島村の古文書によって伝えられています。